松平 広 忠。 松平忠輝

松平広忠とは 家臣の裏切りに翻弄された徳川家康の父 » 歴史観 武将などの人物情報・史跡情報

松平 広 忠

脚注 [ ]• しかし、広忠10歳のときに清康が亡くなってしまうことで、あらぬ方向にそれていくのです。 実は清康が家督相続する前、そもそも信忠の後継者として信定を推す声が多かったようです。 慶長11年()11月24日、大久保長安の仲介により、の長女・と結婚した。 内膳正信定は「嫡家を奪う志ありて 長親君をたぶらかし」織田家へ内通した。 忠輝の岳父が伊達政宗であったため、また幕府内で奉行職を兼任し莫大な財力を背景に隠然と権力を振るっていたと近い間柄であったことから、幕府から警戒されたという説()。

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松平忠質とは

松平 広 忠

見方を変えれば、松平氏は織田信秀の支配下に入って信定が新たな当主に就いた、ということかもしれません。 また「七人をして三州小豆坂の七本槍と称す」とした上で、後に「 岡崎勢五郎兵衛尉横槍を入れ」織田勢を追い崩したこと、「小倉千之助」が「鑓三位」を討ったことも併記している。 織田勢は「織田三郎五郎大将分にて」坂の途中でせりあいとなった。 ちなみに敵対していた信定も降伏し、広忠に仕えていますがまもなく亡くなっています。 海外との交易に興味を示し、武術を好むと同時に、絵画、薬学に通じた文化人でもある。 「寛政譜」14巻「戸田」318頁は弾正少弼「某」を「今の呈譜 康光に作る」とし、娘「真喜姫」を「広忠卿の簾中たり」と記している。

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松平家広 (形原松平家)

松平 広 忠

しかし同年9月の持広の死去後、養嗣子・の加担で庇護者を失うと、大蔵に伴われてへ再逃亡。 元和4年 1618年 には飛騨国・高山の金森重頼に身柄を預けられますが、この時に使者である と中山照守に対して無罪を主張したため、幕府の重臣らが将軍への謝罪を勧め、結果として忠輝は飛騨に赴きました。 形原町東古城• 兄弟 [ ]• 天文10(1541)年、広忠は、尾張国緒川城の城主で尾張国と三河国の国境に領地を持つ水野忠政の娘を娶りました。 改易後は幕臣として長沢松平家旧領近隣を与えられ、交代寄合。 所蔵「御年譜附尾」請求番号:109-23• 『』(1983年、NHK大河ドラマ、演:)• そして、松平広忠は、命を狙われるようになります。

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松平忠俔

松平 広 忠

男子:(1716-1749) - 松平勘敬の次男 脚注 [編集 ] 深溝松平家当主 信広 長勝 勝茂 信吉 親長 由重 信和 尚澄 親相 信乗 信言 信汎 頼載 信英 九洲男 信泰 英男 弘久 輝夫 … 宗家 守親 清直 清当 義堯 義著 義峯 守惇 守誠 善長 清良 清倫 敬信 … 宗家 大給 宗家 宗家 重忠 忠清 断絶 康定 清長 清吉 清忠 清政 清次 祐義 義清 祐教 清門 義崇 義理 健三郎 鉄太郎 富次郎 … 親次 親俊 康親 康盛 康俊 康兆 康永 断絶 清定 忠養 … 断絶 藤井 乗清 乗遠 乗高 乗次 正貞 正勝 重信 滝脇信成 滝脇信鑰 滝脇平人 … 貞副 信興 信美 忠正 … 昌久 三光 正親 正朝 正永 断絶 五井 忠益 忠明 忠根 忠寄 忠命 忠元 忠凱 弘之助 … 忠威 忠諒 忠貞 … 能見 親則 親益 親清 勝宗 一忠 親広 直信 昌興 親孝 親応 親芳 忠道 忠徳 …. 「織田軍記」(総見記):天文17年3月、織田信秀は4,000の兵を率い安祥に入城、「正田原」に陣を構えた今川勢と 3月12日に小豆坂で戦いとなった。 慶長20年()ので大坂に出陣した。 織田氏との抗争 三木城を陥落させる 岡崎城に入った広忠でしたが、すぐにまた戦いが始まります。 一方、柴は『』に天文17年(1548年)にが織田大和守家と松平広忠に働きかけて対信秀の挙兵をさせたと記されており、道三と結んで挙兵した広忠が義元に接近した結果、小豆坂の戦いが始まったとしている。 後、松平氏の当主である松平元康(後の)がから離反するとこれに従うが、の・との所領争いで不利な裁定が下されたことに不満を持った家広は4年()に今川氏に降伏して離反してしまう。 『捨て童子・松平忠輝』 作:• (一説に岡崎城に帰還した後に元服したとも。

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松平家広 (形原松平家)

松平 広 忠

松平忠俔 時代 中期 生誕 元年() 死没 3年() 改名 芳喬(幼名)、忠長(初名)、忠俔 戒名 玉竜院殿譚水源澄大居士 墓所 深溝の 官位 幕府 主君 藩 主 氏族 父母 、 兄弟 、 忠俔ら 子 継室、 松平 忠俔(まつだいら ただみ)は、中期の。 略歴 [ ] 元年()12月1日、代々島原藩深溝松平家の大老を務めた松平勘解由家の当主・の四男として誕生(4年()生まれとの説もある)。 大石泰史 編『今川史年表ー氏親・氏輝・義元・氏真』高志書院、2017年 天文15年-永禄3年節• このとき、松平勘解由家当主となった松平広教(の子)が幼かったため、芳喬が広教の補佐を命じられる。 愛知の城 佐々木城 三河 佐々木城 Sasaki castle 上宮寺【愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木36】 浄慶寺【愛知県岡崎市上佐々木町梅ノ木33】 【立地】平城 【別称】佐崎城 【市指定史跡】上宮寺 【歴史】築城年は不明。 慶長7年()に5万石に加増移封され、元服して上総介忠輝を名乗る。

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久世氏(関宿藩) - Reichsarchiv ~世界帝王事典~

松平 広 忠

『』は「忠輝、いそぎ発途して駿府へ参られ、宿老もて御気しき伺はれしに。 「安祥方討負城陥」して城代「」が切腹した。 天文18年3月、鷹狩の際に「岡崎領分 渡利村の一揆生害なし奉る」と記す(下記所蔵本15丁左)。 本家の島原藩2代藩主・は、実子が早世したため、養子として芳喬の実兄である(定方)を迎えた。 - 長沢松平家。

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松平忠次

松平 広 忠

その理由は、忠輝同様に母親の身分が低かった秀康とほぼ重なるが、とりわけ忠輝については、その容貌を嫌ったという記録が多い。 「忠政」の弟 穎新(えいしん)または 恵新(けいしん)。 このとき、従五位下主殿頭に叙任され、名を忠長と改める。 忠輝軍が大坂に向けて進軍中、守山で軍列を追い越したとして、秀忠直属の、らを斬り殺したため(ただし、当時の軍法では戦中の追い越し、つまり乗り打ちは切り捨て御免となっているので、忠輝の処置は合法である)。 この際、幕命により松平清直を5千石で再度附属させられている。

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